終わりにあたって

ほんの遊興のために、世界の果てまで行く者もあれば、貧に窮し、わずかな移動も、ままならぬ者もいる。
自分は、後者だ。したがって、たまの休日にどこかに出かけて、写真を撮ることは、もう、できない。
いまは、1%の富裕層と99%の貧困層の時代。自分は、貧高層の代表。
よく整備された、美しいオフィスビル群、見上げるほどの巨大な高層住宅。でも、そこに、自分が、いるわけではない。貧困層だもの。当たり前だよな。
それなのに、そこに行って、高層ビルの写真を、撮ることで、あたかも、そこに、参加しているような気になって。
でも、残念ながら、そんなことすら、もはや、できなくなってしまった。
貧困層には、そんな余裕すら、許されていない。
高度成長をなしとげた後の安定期、バブル期は、違った。
自分の身の回り、公園は整備され、街は発展し、そこには輝かしい未来があった。
どうでもいい、公園には、妙なオブジェ。この程度のオブジェを制作していても、身の置場があるという安心感。
いまは、どうだろう。
まわりには、シャッター街。駅近くのショッピングセンターは、まるで、寂れ果てた地方都市。それほど、都心から離れてはいないのだけど。
いったい、どこで間違ったのだろう。どうして、こうなってしまったのだろう。