2015-07-01から1ヶ月間の記事一覧
ほどなくして、通りの、東側には、天王寺。 創建は、わからないが、おそらく、江戸時代の前、室町時代、と思われる。 日暮里あたりの、寺社と、同じだろうか。 江戸時代に入ると、しばらくして、寺勢、盛んとなる。 南側、寛永寺が、広大な、寺域を、持つよ…
しばらくすると、通りの、東側に、安立寺。 創建は、江戸時代の前半、だろうか。 最初から、この地に、あったのかどうかは、わからない。 おそらく、あったと思われる。 江戸時代、このあたり、高台は、関係なかったのだろうけど、あちこちと、開拓され、開…
谷中霊園。墓場である。 墓場も、こうして、歩いてみると、静かでいい。 墓地は、あの世に、関わるのだろうけど。 でも、実際、結局は、この世にあって、そして、安らぎを、想い、開かれたわけだ。 だから、静かなのは、当然なのかも。 この世の、喧騒とは、…
谷中霊園の入口。 まるで、参道のようになっているが、明治時代より前は、霊園は、なかったので、実際、参道だったのかもしれない。 参道だったとすると、その先にある、天王寺の、参道だったのだろうか。 時代の変遷、江戸時代から明治時代なのだが、激しく…
寛永寺の北、言問通りを、挟んで、北側には、浄妙院。 創建は、江戸時代。 寛永寺の子院。 最初から、この地にあるとすれば、寛永寺の、寺域、ここまで、ということになる。 明治時代になって、移転してきたとすれば、やはり、もとは、今の、上野公園に、あ…
西側には、山門はないが、入口がある。 そういえば、本堂といわずに、中堂、といっているのは、もともとの、場所から、移ったからだろうか、と思って、江戸名所図会を、見てみたが、江戸時代、上野公園に、あったときも、中堂、だったようだ。 それはそれと…
北西に歩いていくと、寛永寺根本中堂。 現在の、寛永寺、本堂なのだろうか。 江戸時代の寛永寺は、明治時代になった折の、戦火で、なくなってしまったので、建物は、別の、寺院を、移築したらしい。 それが、寛永寺根本中堂、ということだ。 ただ、こうなる…
しばらく、歩いていくと、北側に、寛永寺勅額門。 北側、墓地に、江戸幕府、徳川家の、墓があるから、設けられているらしい。 ただ、もともと、寛永寺は、上野公園にあったので、明治時代、寛永寺が、移ってきた折、勅額門も、移築されたのだろう。 もっとも…
国立博物館北側の、通り。 道路の北側は、墓地になっている。 江戸時代の、地図を見ると、寛永寺は、今の、国立博物館に、本堂が、あったようだ。 その、北側も、寛永寺の、寺領だったのかどうか、わからない。 さらに、北側は、崖下に、なるので、寛永寺の…
北へ、歩くと、通りの、東側、寒松院の山門。 こちらも、江戸時代、創建。 寛永寺の子院。 山門は、二つしかないのだが、寺院は、たくさん、あって、密集している。 ただ、初めから、密集していたわけでもない。 例えば、寒松院、最初は、今の、上野動物園、…
通り、東側には、寺院が、並ぶ。 山門のある、林光院。 創建は、江戸時代。 他も、同じ頃だろう。 いずれも、寛永寺の、子院だ。 当時の、寛永寺、寺勢、盛んな様を、今に、伝えている。 静かな、寺町、さらに、北へ北へと、向かう。 (2013年3月記)
こちらの方、来たことないなあ、たぶん。 都心にも、訪れていない場所が、あったわけかな。 華やかな、上野駅界隈、上野公園、そして、静かな、博物館。 さらに、その奥。 おそらく、江戸時代、寛永寺が、広大な、寺域を、保っていた頃、そのまま、なのかも…
通りを挟んで、北側には、寛永寺。 といっても、もともと、寛永寺の、寺領は、上野公園全体だったので、今、あるのは、寛永寺の、一部分、ということになる。 寛永寺、創建は、江戸時代の、初め頃。 江戸の町の、鎮護のために、建てられた、ということだ。 …
東西に伸びる道路。 その北側には、国立博物館がある。 創設は、明治時代の初め。場所は、湯島聖堂。 ウィーン万国博覧会への、出展準備、ということだったらしい。 すぐに、今の、新橋駅近く、内幸町に、移転。 場所が、手狭だったので、また、すぐに、この…
噴水広場なので、噴水があるわけだが。 おそらく、噴水が、できたのは、高度成長期あたりだろうか。 水の、噴き上がる様、世の中の、隆盛を、そのままに、表していたことだろう。 今は、工事中なのか、噴水は、止まっている。 これでは、平板な、池だ。 こち…
ちょっと前まで、上野、というと、都心からは、独立した、感じはしたのだが。 独特な、街並み。 それが、徐々に、消えていきつつあるのだろうか。 そんなことを考えながら、階段の上ると、上野公園。 東側、低地、下町と、西側、台地、山手との、境界。 下町…
そういえば、このような、きれいな建物だったろうか。 たしか、つい最近まで、西郷会館、だったのだ。 昭和の時代の、建物。 のれん街、レストラン聚楽台。 西郷会館が、建てられたのは、戦後、しばらくしてから。 レストラン聚楽台は、高度成長期の頃、オー…
かつては、東京駅、境にして、西側は、オフィス街、東側は、商業地区、という感じだったのだが。 オフィス街が、東へと、溢れ出しているようだ。 おそらく、昭和通りまで、だと思うけど。 永代通りに戻り、西へ。 日本橋駅。今度は、銀座線に乗る。 上野駅で…
高田馬場駅から東西線。 日本橋駅で下車。 地上に出ると、東西に伸びる、永代通りと、南北に伸びる、中央通りとの、交差点。 なかなか、賑やかだ。 永代通りを、東へ。 しばらくすると、南北に伸びる、昭和通り。 昭和通りを、北へ向かう。 ほどなくして、通…
神田川を渡ると、新目白通り。 南へ、外苑西通りが、伸びる。 バブルの頃の、地図を、見ると、まだ、なかったようだ。 新しい、通り。 そういえば、そういうことも、あったかも。 覚えているのは、さらに、その先、早稲田通り、あたり。 通りは、開通したも…
神田川に、架かる、近くの橋で、神田川を、渡る。 道路工事現場が、北から、伸びてきている、ということは、新しい、橋も、架かるはずだ。 果たして、神田川を、見ると、橋梁も、工事中。 もっとも、実は、かなり、昔、いつぐらいだったろうか、バブルの後か…
台地、下り斜面の、更地、下りきった、低地、神田川まで、続いている。 おそらく、更地になったのは、こちらの方が、先だろう。 下町の方が、再開発、されやすいからだ。 そんな下町なのだが、それほど、昔ではない、過去、ここらへんには、まだ、商店が、建…
坂の上、東西に伸びる、目白通り。 さらに、その北側には、不忍通り。 不忍通りが、南へ、延伸する、というところだ。 その先、神田川までは、崖下だし、目白通りと、平面交差を、避けるとすれば、手前で、地下化する方が、いいかも。 そのような、予定はな…
更地を、北へ。 目黒の台地への、上り坂に、なっていく。 小布施坂、という名前。 明治時代、小布施、という者の、屋敷があった、ことによるらしい。 明治時代より前、一帯は、岩槻藩の、下屋敷だったので、それは、あり得るかも。 さらに、坂を、上っていく…
豊川浴場の、すぐ、東側、更地が、広がっている。 商店街が、無くなった、というだけでは、なさそうだ。 その、更地は、商店だけでなく、住宅地も、含め、南北に、伸びているからだ。 細長く、伸びている、ということは、道路予定地。 外苑西通りの、工事を…
東に歩いていくと、すぐに、通りの、北側には、豊川浴場。 下町にある、銭湯だ。 銭湯ばかりではなく、通り沿いに、いろいろと、店が、並んでいる。 商店街、といっても、いいのかもしれないが、特に、名前は、ないようだ。 バブルの頃の、地図を、見ると、…
江戸時代の地図を、見ると、日無坂の、東側には、岩槻藩の下屋敷、西側には、宍戸藩の下屋敷が、あったようだ。 つまり、日無坂は、大名屋敷の、間に、あった、坂道。 などと、昔のことを、考えているうちに、坂を、下りきる。 台地の、麓には、東西に伸びる…
南へ。住宅地の中。 神田川への下り斜面なので、下りの坂道。 富士見坂、という名前。 東側にも、坂道が、伸びている。 こちらは、日無坂。 江戸時代の地図を見ると、実は、日無坂しかない。 富士見坂は、おそらく、あたりが、宅地化されたとき、作られたの…
しばらくすると、北東へ伸びる、不忍通り。 名前の通り、上野、不忍池から、伸びてきている。 北側、大きく、弧を描いている通り。 別名は、環状四号線。 南側は、外苑東通り、となっている。 もっとも、繋がっているわけではないので、普通の、通りなのだが…
目白通りの南側は、グラウンド等、が整備された、公園になっている。 南東側の、新江戸川公園の、一部なのだろう。 江戸時代、これらを含めた、広い地域は、熊本藩下屋敷、となっている。 熊本藩だけが、特別に、広いわけでもなく、大名屋敷は、だいたい、広…