大宮駅西口(シーノ大宮・ノースウィング)

シーノ大宮・ノースウィング

街中を抜け、南へ歩く。ソニックシティの方へ。
ソニックシティの西側にシーノ大宮・ノースウィング。
南にあるシーノ大宮サウスウィングとともにツインビルになっている。
実は前回、シーノ大宮サウスウィングを訪れた時はツインビルになっているとは気付かなかったのだが。
北側一帯はなんかおしゃれなダウンタウンという感じで賑わっている。
すぐ思い浮かんだのは横浜の伊勢佐木町あたり。町名も桜木町で横浜の桜木町を思わせるし。
しかし、どうしてこうも、あちこちの郊外の都市の街並みは似た感じになってしまうのだろうか。
大宮なら東口の方が大宮らしくて雰囲気は好きだが。
大宮の街ができたのはおそらく江戸時代、南北に中山道が開通したころと思われる。
それ以前は、延々と長く伸びる氷川参道が街道であり、その街道沿いに氷川神社門前町があったらしい。中山道開通のため旧街道は氷川神社の参道へ、そして門前町中山道沿いに移転、ということで大宮宿が生まれたのだろう。
大宮の地名は、この氷川参道の先にある氷川神社が由来である。
この氷川神社の歴史は非常に古く、御神体は、神社の東側にかつて広がっていた見沼であった、ということだがおそらくその通りであると思う。
しかし、それがどうして古代の武蔵の国の中心になっていくのかよくわからない。
その後、奈良時代平安時代と日本の国家としての統治機構が整備されていくと、中心は南へ移っていく。
すなわち、国府は府中、国分寺国分寺市一の宮は多摩市の小野神社というふうに。
皆、多摩川に近い場所なのだが。
ただ、見沼があるかぎり氷川神社は存続していたのだろう。
再び脚光を浴びたのは江戸時代の見沼の干拓事業であったと思う。この干拓事業で生まれた田圃による米はまさに見沼がもたらしてくれた産物に他ならないからだ。
氷川神社が尊崇を受けるのは当然と思う。
そして、明治時代に入り、氷川神社武蔵国総鎮守となる。
もっとも大宮が商業の街になったり、鉄道の街になったりしたことと関係があるとも思えないけど。
ただ、この途方もなく巨大な氷川神社が大宮の街にあるということはなんだか巡りあわせのような気もするのだ。
(2006年11月記)