山手線大崎駅(大崎ニューシティ3号館日精ビルディング)

大崎ニューシティ3号館日精ビルディン

大崎ニューシティ4号館新大崎勧業ビルディングの東側、大崎駅から見て、大崎ニューシティビル群の裏側になるところには、大崎ニューシティ3号館日精ビルディングがある。
竣工は、同じく、バブルの頃だ。
このように、3棟の高層ビルを擁する、大崎ニューシティのビル群が、大崎駅の、山手通りを挟んで、すぐ東側に、バブルの頃、出現したのだが。
そうだとすると、バブルの頃にも、現代のような、駅近くの再開発があったのか、と思ってしまう。
ただ、当時は、周囲は、すべて、工場地帯だったようだ。
京浜の工場群が目黒川沿いに伸びてきていた、といったところか。
だから、バブルの頃、こんな辺鄙な場所に、ビル群ができてしまった、と考えた方がいいだろう。
たとえば、ちょっと前まで、大崎、と言われても、ごくたまに、山手線の終着駅になっているなとしか、思い浮かばなかったなあ。なにせ、まわりには、工場しかなかない、まさに僻遠の地だったし。
そんな大崎駅周辺だったのだが、バブルが崩壊して、失われた10年がやってきて、その終わり頃、急激に高層ビルが建ちだし、今もその建設が続いている。
都心の集積化により、大崎も、その都心に呑み込まれたのだ。
そのような大転換は、大崎ニューシティの南側のゲートシティ大崎が始まりだったのだろう。
まず、南側にゲートシティ大崎ができ、次いで、北側には、五反田近くまで、高層ビル群が伸びていった。
そして、最近は、駅の西側で工事が続いている。
さらに、その工事が終わった後、今度は、大崎ニューシティの東側、ということになるのかな。
こうして、大崎ニューシティの周囲は、工場地帯から高層ビル街へと変貌してしまったのだ。
もっとも、そうだとすると、バブルの頃は、大崎ニューシティの周囲は、工場しかなかったので、このビル群の名前は、たしかに、「ニューシティ」でよかったのだが。
しかし、今となっては、このビル群、大崎の高層ビル街の中では、最古参の古びたビルにすぎなくなってしまっている。
こうなるとわかっていれば、名前は、せめて、「センターシティ」ぐらいにしておけばよかったかな。
時代の流れとは、かくも、人智を超えたものだ、ということなんだろうけど。
ならば、大崎周辺のビル群がすべて完成した後、どうなるかは、わからない、ということだな。
その時が来るまで、楽しみにしていよう。
(2008年6月記)