霞ヶ関(霞が関三井ビル)

霞ヶ関三井ビル

霞が関R7プロジェクトの西側には、最古の超高層ビル霞が関三井ビルが聳えたつ。
さらに西側には、工事中の東京倶楽部ビル、特許庁のビル、そして北側には新霞が関ビルがある。
竣工は、いざなぎ景気の真っ只中、高度成長の絶頂期である。
いままで高いビルなどなかったなかでいきなりこの高さ、巨大さ。日本がこの後辿り着くであろう高みを予兆していたかのようだ。
霞が関ビルのある土地には、明治の頃の最初の社交クラブ、東京倶楽部の建物、そしてもと華族会館霞会館があった。
華族といえば、霞が関ビルを建てた三井不動産三井財閥だったことを思い起こさせる。
三井財閥とは、戦前最大の財閥であり、明治維新の頃、朝廷方についたことにより政府に取り入り、成功する。
その後、経済発展の見返りに華族に迎えられ、財閥華族と呼ばれる。
財閥は戦後、解散させられる(華族も消滅する)が、形態は全部そのままで、現在もそのままである。
ただし、三井グループだけは再建が思うようにいっていない。
三井不動産は、本当は、東京倶楽部の建物の跡地に9階建のビルを建てる予定だったが、予定が変更され、隣の霞会館(旧華族会館)の土地も含めて巨大ビルを建てることとなる。
官庁街から見て、すぐ近くに今まで見たこともないような巨大な建造物の出現は、三井グループの存在を意識せざるを得なかったのではないだろうか。
高層ビルはその後どうなっただろうか。
2番目の高層ビルは浜松町の世界貿易センタービルであるが、竣工は、2年待たなければならない。
まだ、大手町にも西新宿にも、どこにも高層ビルはなかった。
霞が関ビルが竣工した年の12月には、3億円事件がおこっている。
そういった事件も、まるでよくできた御伽噺であるかのように、社会の中を飛び交い、人々は目の前の仕事に忙殺されている。
そして、日本は経済大国へと駆け上がっていく。
あの頃は、何もなかった、と、しかし、強い郷愁の感情を持って振り返る場所まで駆け上がっていくのだ。
(2006年9月記)