川口駅東口(リビオタワー川口ミドリノ)

リビオタワー川口ミドリノ

施設群CUPO・LA(キュポ・ラ)の南側にリビオタワー川口ミドリノがある。
こちらの方がやや先にできたのだが、CUPO・LA(キュポ・ラ)とデザイン的には統一されているようで、一群の建物としてみてもいいかもしれない。
川口に鋳物産業が登場したのは、江戸時代ということらしい。
荒川沿いに型に使う砂と粘土が豊富にあったことと、出来た鉄製品を舟で用意に江戸まで運べた、という2つの理由があった、ということだ。
もっとも、そういう条件の場所なら江戸の近くにいくらでもありそうなんだけど。
もっと歴史を遡った方がよさそうだ。
平安時代延喜式には、川口に近い神社としては、より内陸地の浦和、調神社ぐらいしか見当たらないので、その頃には川口には、湿地帯しかなかっただろうと思う。
鎌倉時代末にやっと鎌倉街道沿いに小河口という地名で川口が登場する。
ただし、荒川流域(当時は入間川)には渡来人が多く住み、特に川口の西側の志木、新座は、渡来人が暮らした新羅郡があった。荒川のやや下流の川口に、ひょっとしたら、その影響はあったかもしれない。
例えば、川口の古刹、錫杖寺は、創建年は不明だが、行基伝説がある。
行基といえば、奈良の大仏である。奈良の大仏は、鋳物技術の産物であり、その鋳物技術は、渡来人によってもたらされた、ということだ。
本当に、行基が来て錫杖寺を建立したとも思えないが、鋳物技術を持った渡来人、ということを連想させる。
錫杖寺の西側にある金山町(鋳物技術や渡来人と関係がありそうな町名)やその金山町にある川口神社(もとは氷川神社でこちらも創建は不明なもののかなり古い)についてはよくわからない。
だが、これらのことを考えると、古代にやってきた渡来人によって川口に鋳物技術が伝わり、その技術が連綿と受け継がれ、江戸時代に花開いた、とした方が、自然な気がするけど。
明治時代から高度成長期にかけて、たくさんの鋳物工場ができ、そして安定期から工場がなくなって、バブル期以降はその跡地にでかい高層住宅が建つ。
高層住宅も鋳物技術の遺産、というわけだろうか。
(2007年3月記)