山手線田町駅西口(三田三丁目計画)

三田三丁目計画

再び、札の辻橋を渡って、田町駅の西側に出る。
やはりとても重苦しい空気が漂う。
大通りの第一京浜を南へ歩く。
巨大な臙脂色の住友不動産三田ツインビル西館があり、その南側にイトヤマタワー、さらに郵便局を挟んで南側に三田三丁目計画の工事現場がある。
ここらへんは、江戸時代、東海道だったようだ。
西側は丘陵地。その崖下に東海道。そして、東側は海岸だったのだろう。
もし、芝浦が埋立てられていなかったら、とても風光明媚な場所になっていたろうに。
この第一京浜沿いも、今はオフィスビルが建ち並んでいるが、東側が海岸だったら、リゾートホテルが、建ち並んでいたかもしれない。
もっとも、西側の丘陵地は、埋立てがあろうがなかろうが、山の手の住宅地だろうな。
このように崖と海岸に挟まれた狭矮な場所は、よく関所などが設けられたりする。
実際、南へ少し歩いたところに江戸時代の高輪大木戸があり、今も残っている石垣を見ることができる。
だが、江戸時代より前は、西側の丘陵地の方に鎌倉街道、下の道が通っていた。
また、尾根道のことを高縄手、といい、そこから、高輪の地名ができたらしいのだが、とすれば、鎌倉街道、下の道が、高輪の語源、ということになるのかな。
つまり、江戸の街がなかったころは、崖下の海岸に街道を作る、なんて危険なことはしなかった、ということだろう。
江戸の街ができて、その守りを固めるために、高台の街道を崖下の海岸沿いに移したのだ。そしてさらにそこに関を設けたのだ。
これで、江戸の街の守りは、磐石なものとなった。だが、おかげで、何百年も経った今では、陰気なビル街ができてしまった。
もっとも、オフィスビル街として土地を有効利用しているともいえるのだが。
(2007年10月記)