中央線大久保駅(百人町三丁目アパート2号棟)

百人町三丁目アパート2号棟

小滝橋通りを北へ歩く。
西側へとカーブを描いていく中央線の高架をくぐってさらに北へと進む。
少し歩いていくと、小滝橋通りの西側に百人町三丁目アパート2号棟がある。
竣工は、バブルが崩壊した後の失われた10年の終わり頃。
場所的にみて、さっきの、フレイザープレイス・ホフ新宿のツインビルとビル群を形成しているような感じだ。
さらにいえば、小滝橋通りを挟んで西側には中央卸売市場があり、東側にも、学校や病院、集合住宅などの施設が建ち並んでいて、百人町三丁目アパート2号棟もその施設の一部になっている。
それらの施設群は、やはり、大久保のインターナショナルな商業地と、北側の住宅地との間に東西に横たわる境界線になっているようだな。
もっとも、そのような東西に帯状に広がる施設群ができた頃から、大久保が一大商業地になっていたわけでもないだろう。
とりあえず、現状は、そのような境界線になっている、ということかな。
そんな帯状の境界線を昔はよく通過して、新宿まで行ったものだ。
バブルの直前ぐらいの頃だったかな。高田馬場から新宿まで、歩いて行ったのだが。
今、振り返ってみても、とても不思議な感じだが、その頃の記憶によると、大久保は、もっと静かだったような気がするし、それどころか、歌舞伎町も、今のような風俗店街ではなくて、ただの、飲食店中心のでかい繁華街だった気がする。
それが、いつ、どのようにして、現在のように変わったのだろうか。
もともと大久保通り沿いは、昔から、今のように国際的ではあったし。
変わってしまった今となっては、判然としない。
もう薄れてしまった記憶を探ってみることにする。
たしか、大久保の北側に、今でもあるが、東京グローブ座、という劇場があって、演劇でも一度は見ようか、ということで、昔、行ったことがあるのだが。
一緒に行った同僚が、ちょうど大久保の近くに住んでいた。
その同僚から、急激に大久保のお店が外国人だらけになってしまった、と聞いたんだっけ。
街中には、山下達郎のクリスマス・イブが流れいたなあ。
そうだとすると、大久保の街が、一気に国際色の豊かさで盛り上がった、その時、というのは、やはり、バブルの頃だった、そうとしか思えない。
つまり、バブルの熱狂に覆われていた頃、大久保の街は、国際色豊かな街に変貌し、今に到っている、ということだ。
(2008年5月記)