京浜東北線大井町駅(歩道橋から時代屋を臨む)

歩道橋から時代屋を臨む

若い女性(夏目雅子)が、やって来るのは、いつも、この歩道橋からなので、ちょっと、歩道橋から、時代屋のあった場所を、写真に撮ってみた。
なるほど、この歩道橋の上からだと、もし、本当に、時代屋があれば、かなり、目立つな。三ツ又商店街の、入口でもあるし。
ところで、この女性、どこから来て、どこへ行こうとしていたのかな。
地理的に見れば、南の方から、池上通りを、北へ歩いてきて、三ツ又商店街に入り、大井町駅へ向かっていた、としか考えられない。
ということは、少しは、このあたりの、土地勘は、あったわけだ。それどころか、何度か、このルートで、大井町駅に行っていた可能性が強いように思える。
もし、そうなら、たぶん、この歩道橋の下に、骨董屋があることも、あるいは、ひょっとして、その骨董屋の主人についても、遠目で見た限りにおいて、すでに、知っていたのだろう。
そのように考えると、ふらっと、時代屋に現れたのではなく、首尾よく、転がり込んだ、とした方が、自然な気がするな。
では、なんで、転がり込んだ先が、時代屋、という名前の、骨董屋なのだろうか。
たぶん、こういうことなのかもしれない。
骨董屋とは、さまざまな時代の物を扱うお店。だから、そこには、時間の流れ、というものがない。骨董屋の中では、時間が止まっているのだ。
つまり、「時代」を売っているお店は、時代からは、無縁な存在、に違いない。「時代屋」、という店名は、そのことを、暗喩しているのかも。
彼女にとって、そのように、時間が、止まっている場所が、欲しかったのだろう。(簡単に言えば、世間から、放って置かれたかったのかな)
そして、ふっと、数日間、姿を消している間だけ、時間が動き出していさえいれば、いいのだ。(テレビドラマで、リメイクしたとき、姿を消している間は、親権を失った、自分の子供に会っていた、という解釈だったみたいだが)
「吹き溜まりで、出会った、塵くず同士が、使い捨てられた品々を、売り物にして生きていく」
最初は、こんな具合だったけど、だんだん、そうではなくなっていく。
例えば、いつものように、何の前触れもなく、姿を消して、戻ってきた彼女を、骨董屋は、とても、優しく迎え入れる。
彼女は、涙を落としながら、呟く。「あんたって、本当に、ばかみたい」
優しくされれば、当初の思惑が、崩れていくのだ。
彼女は、ふと、こんな風にも、言ってみる。
「骨董屋さんが、優しくて、あたしが、残酷なのかしら」
「骨董屋さんは、気付かないで、残酷なのかもね」
なぜなら、優しくされれば、思い出ができる。
その思い出は、どんどん、積み重なっていく。
積み重なった思い出は、時を紡ぎ上げ、やがて、時間になっていくのだ。
そして、骨董屋の中で、止まっていたはずの、時間が、動き出す。
もっとも、それって、残酷なことなのかな。
彼女を見ていると、まんざらでもないように、見えるんだけど。
(2009年4月記)