総武線飯田橋駅(ステージビルディング)

ステージビルディング

この歩道橋から、西に向かっても、また、池上通りを、いったん、南に行き、交差点を曲がって、同じように西に行っても、西大井駅に辿り着く。
たぶん、西大井駅まで、同じ圏内、なんだろうな。
時代屋の女房」の中では、その西大井駅近く、横須賀線の踏切のそばに、骨董屋さんと知り合いの、ちょっと、年老いた、クリーニング屋さんがいることになっている。
ある時、骨董屋さん、そのクリーニング屋さんに対して、電車が通るたびに、震動で、入れ歯が、カタカタ、音を立てていますよ、と言ってしまうのだ。
すぐに、お前さん、いやな事に、気が付くタチだねえ、と、たしなめられるけど。
普通、そんなことは、わかっていても、言わないものだ。何十年か経てば、自分も、同じ境遇になるのだから。
でも、時間の止まった、古道具に囲まれていると、年月が経てば、老いる、ということを、忘れてしまうのかもしれないな。
そんな骨董屋さんなのだが、徐々に、時間とは、無関係という、錯覚に、違和感を覚え始める。
そもそも、古道具だって、なんで価値があるのかといえば、それを必要とする者が、老いていく存在だから、ということでもあるんだし。
そして、決定的だったのは、ひょんなことから、骨董屋に転がり込み、一緒に暮らし始めた女性が、何の前触れもなく、数日間、姿を消してしまう、ということなんだろうな。
彼女に対する喪失感が、繰り返されれば、彼女の存在が、永遠でない、ということを、いやでも、実感させたに違いない。
儚い存在の、彼女を、だから、いとしく、感じるようになるのだ。
そこまで、考えて、歩道橋を降り、三ツ又商店街を通って、大井町駅に向かいながら、また、考え続ける。
なんで、このような、話が、バブル直前の時代に、生まれたんだろう。
あの頃は、昨日よりも今日、今日よりも明日、と生活がよくなっていく時代だった。そして、明日のその先には、未来があったのだ。
今とは、時代の感覚が、まるで、違っていたのかもしれないな。
大井町駅に着き、京浜東北線に乗る。
そういえば、あの頃の京浜東北線は、車体が青色だった。しかも、頑丈そうに見えた。今の車両は、ステンレス製でかっこいいけど、最初から、長持ちするようには、できていないみたい。
そのことは、時代というものが、昔は、未来への過程、だったのに対して、今は、ただの、変化、という違いを、表しているように思える。
そんな京浜東北線を、秋葉原駅で下車。総武線に乗り換える。
飯田橋駅で降りる。駅南側に出て、線路に沿って、西へ。坂を上っていく。
道路の南側には、再開発で、最近、出現したビル群。
その中の一つに、ステージビルディングがある。(工事中はこちら
以前、この場所にあった街は、もう、跡形もない。過去は、思い出の中だけ。
その思い出が過ぎった時、ふと、時代の感覚、が滲むように、溢れてきた。
ひょっとしたら、今の世の中、時代の流れ、というのは、こんな風に、失われたものでしか、実感できないのかもしれない。
とすると、今、時代屋があったら、そこに、彼女は、もう、戻っては、来ないだろう。
戻って来ない、というところから、時代屋の話は、始まるのだ。
(2009年4月記)