中央線御茶ノ水駅(湯島聖堂)

湯島聖堂

聖橋のアーチをくぐり、東へと歩く。
通りの北側には、緑深い、広大な、湯島聖堂の敷地。
そういえば、湯島聖堂の階段で、レモンを齧って、その齧りかけのレモンを、聖橋の上から、放る、という有名な歌があったな。
たしか、高度成長期が終わって、世の中が落ち着いてきた、安定期の頃の歌だ。
たぶん、この歌の中の、レモンとは、青春、そして、そのレモンを放る、というのは、その青春との、切ない決別、なのだろう。
もっとも、今のような、格差社会では、齧るレモンも、放り投げるレモンも、ないような気がするけど。
今はただ、そんな安寧な時代もあったのだな、と思うだけだ。
などと、昔を懐かしんでいるうちに、湯島聖堂の門前に着く。
湯島聖堂とは、儒教の祖、孔子を祀った、孔子廟だ。
なるほど、道徳の府、儒教の大本で、レモンを齧ってみせる、というのは、なかなか、若さが漲っている感じがする。
門をくぐり、しばらく、静かな緑の中を歩いていく。すると、突然、目の前に、でかい孔子像。
その像の巨大さで、孔子の偉大さを、表現したのだろうが、偉大、というより、ちょっと、怪物じみて、見えるな。
階段を登っていくと、門があり、その向こうに、さらに急な石段。なにか、道徳の高みに上昇していく感覚を実感してしまう。
石段を登りきると、また門があり、その先には、いよいよ、湯島聖堂の中心、大成殿。
ここを訪れるのは。二度目なので、それほど感動はしないが、やはり、歴史の重さを感じるな。
ということで、大成殿の門を出る。
出た後、まわりを、ちょっと、うろうろしていたら、ひょっこりと、聖橋の上を通る、道路に出てしまった。
道徳の高みに達した、と思ったら、聖橋の上だった、というのは、なんだか、興醒めだな。湯島聖堂の、あの階段は、実は、格差社会の階段だった、なんて思ってしまうからだ。本当は、違うんだろうけど。
それで、この後、聖橋まで歩いていって、齧ったレモンを、放ったわけか。
でも、もし、ここが、山の手だと、気付いたら、レモンを放ることなんて、しないだろう。なにせ、勝ち組なのだから、当然だ。
格差社会においては、レモンだろうが、道徳だろうが、孔子だろうが、そんなものに、意味はない。勝ち組か、負け組か、それだけが、意味を持つのだ。
そういう世の中なので、仕方ないな。
(2009年5月記)