京成金町線柴又駅(柴又帝釈天)

柴又帝釈天

帝釈天参道を東へと歩いていくと、その先には、帝釈天が安置されている題経寺。
創建は、江戸時代で、それほど、古くはない。
ただ、一帯の、柴又、という地名は、かなり古い。ちなみに、昔は、島俣(しままた)、というような地名だったようだ。
さらに、近くの八幡神社には、古墳があったらしく、この点からも、そうとう古くから、集落が、存在していたことが、わかる。
ここに来るのは、二回目だけど、実際、なんか、のんびりしていて、とても、暮らしやすそうな雰囲気がするし。
ところで、ここの住職の娘さんが、寅さん映画の、マドンナ第一号、ということになるのだが。
男はつらいよ」、という単独の作品では、寅さんとマドンナとの関係、ちょっとした、エピソードに過ぎないけど、シリーズを通しては、普遍的なテーマとなっている。
もっとも、当初は、シリーズ化そのものの予定は、なかったらしい。
とすると、寅さんとマドンナ、という関係も、期せずして、テーマに浮かび上がっただけなのだろう。
とはいえ、そのことを、注意深く、見てみるのも、無意味ではないかもしれない。
第1作目のマドンナの名前は、冬子さん。寅さんが、20年振りに帰郷したときは、柴又ではなく、奈良にいたようだ。
療養していた、ということだが、どういうことで、そうなったのかは、不明。
父親である、題経寺の住職、御前様が迎えに来たとき、偶然に、寅さんと出会う。
寅さんが、なんで、奈良にいるのか、というと、さくらさんのお見合いが破談したことについて、責任を感じ、また、家を出てしまい、たまたま、奈良に来ていたのだ。
そういうわけで、一時、この三人で、行動を共にするうち、寅さんは、すっかり、冬子さんを見初めてしまう。
見初めついでに、御前様、冬子さんに付いて、柴又へ、また、帰って来る。
でも、博さんが、さくらさんを思う気持ちと、寅さんが、冬子さんを思う気持ち、どこか、決定的に違うな。
たぶん、博さんが求めているのは、自分を理解し、受け止めてくれる女性、なのだが、寅さんが求めているのは、家族そのもの、のような気がする。
奈良で、御前様と娘の冬子さんと、鉢合わせしたとき、寅さんは、直感的に、もし、冬子さんに旦那さんがいて、しかも、子供を連れての、家族旅行なら、こんなに素晴らしいことはないだろうと、感じたに違いない。
ビニール製の鹿の玩具を持って、はしゃぐ、寅さんと冬子さん。この鹿の玩具、子供連れ、ということの、暗喩なのだろうな。
こんな風に、家族の雰囲気に包まれながら、寅さんは、柴又に帰ってくるのである。
だが、旅行中なら、そういうことは、許されるかもしれないが、日常の中では、夫婦でもなんでもないわけで、そのような雰囲気は、持続するわけはない。
ここで、ちょっと、冬子さんの側から見てみる。
一見すると、あるいは、シリーズの定番、としてみると、冬子さん、散々、寅さんを振り回しておいて、あっさりと、他へ、嫁いでしまうように見える。これでは、ただの、無邪気な女性、というだけだが。
本当に、そうなのだろうか。
本当にそうだとして、寅さんは、そのような女性に、家族を連想したりするものだろうか。それは、あり得ないことだろう。
実際、どう見ても、冬子さんは、寅さんの家族を希求する気持ちに、絆され、楽しく、乗せられているように思える。
なぜなら、頻繁に、寅さんに会って、時に、二人で、でかけたりしているからだ。
特に、さくらさんが嫁いだ後は、毎日のように、会っていたらしい。
若い女性が、世慣れた、年上の男性に惹かれることは、よくあることだし、違う世界を知っている男性、ということも、刺激があったかもしれない。
けれど、ここまできて、何もない、としたらどうだろう。
何かあったとしたら、寅さんらしくないわけで、ちょっと、想像できないのだが。
何もないとしたら、これ以上、永久に、何もないことになる。
こう見てくると、振り回されているのは、むしろ、冬子さん、なのかも。
寅さんと会う約束の時間に、敢えて、婚約者といることを見せ付けたのは、もちろん、忘れていたからではなくて、この、寅さんとの関係を、清算したかったからに違いない。
ひょっとしたら、寅さん、家族を、悲しいまでに、熱望し、渇望するが、その家族の中には、入っていけない、そういう境遇なのではないかな。
あるいは、家族の中に入っていけないからこそ、家族を希求する。どちらでも、いいんだけど。
寅さんが、愛されるのも、こういうわけなのだろう。
どうして、そうなったかは、そもそも、なぜ、寅さんが、故郷、柴又に帰ってきたか、という疑問に連なると思うが。それは、後ほど、触れる。
(2009年6月記)