京成金町線柴又駅(矢切の渡し船着場)

矢切の渡し船着場

土手を降り、河川敷を東へと、歩いていく。
江戸川に面して、こんもりと、一叢の木立。
矢切の渡しの船着場だ。
渡船料は、100円。寅さんの頃は、30円。
昔、この舟に乗ったことがあるが、対岸には、本当に、何もなかったな。一面、畑しかなかった。
たぶん、普通は、話の種に乗って、また、この場所に、戻ってくるのだろう。
観光目的の舟、というわけだ。寅さんの頃も、そうだったに違いない。
だから、その、矢切の渡しで、対岸から、やってくる、というのは、あの当時にしても、とても、奇異なことだったろう。
そんな風にして、故郷、柴又に、家族を求めて、寅さんは、帰ってきたわけだが。
もっとも、家族を求めて、やって来たわりには、また、傷心をかかえ、旅に戻っていくのだ。
帰ってきたのに、再び、帰る、というのは、おかしな話だけど。
それに、家族を得たいなら、結婚すればいいのかもしれない。それが、一番、早道ではないのかな。
実際、寅さんと境遇の似た、博さんは、さくらさんと、結婚して、家族を得ている。
でも、寅さんは、そういう風には、決して、ならない。博さんに、大学は出ないと、嫁はもらえないってのか、と言っておきながら、想っていた、冬子さんを、大学教授にさらわれているし。
しかし、そこには、なぜか、深刻さは、あまりない。そればかりではなく、寅さんに関しては、すべてにわたって、深刻さはないように見える。
いったいに、寅さんは、なんで、いつも、躓いたり、カバンを落としたり、地に足が着かないのだろうか。そうなってしまうのは、真剣み、切迫感、がないからだが。もっとも、見る者は、そこに、面白みや、親しみを、感じるのだろう。
そういう風に見てくると、寅さんは、実は、たんに、家族を求めて、故郷、柴又に帰ってきたわけではない、ということになる。
では、いったい、何を求めて、矢切の渡しで、江戸川を、越えてきたのだろう。
それは、家族が中心であり、地域社会が基盤となっている、昔の世の中、なのかもしれない。
そうだとすると、「男はつらいよ」、というのは、ひょっとしたら、現在の寅さんが、柴又を方を眺めながら、昔日の思い出に浸って、作り上げた、夢の中の世界、なのかな。
つまり、家族が中心ではなく、地域社会がなくなった、現在からの、ノスタルジックな空想の世界、なのだろうか。
ある意味、家族も地域社会も必要でなくなった、現在というのは、社会的な充足と、満ち足りた余裕、があるのかもしれない。
そのことを実感できる、ということで、だから、寅さんの映画は、シリーズとして、人気があったに違いない。
その現在、というのは、時期的に、高度成長期の後半から、安定期、バブル期、バブル崩壊期、ということになる。
だが、今は、社会的な充足も、余裕も、すっかり、なくなってしまったな。
かといって、家族や地域社会は、すでに、消滅してしまったし。
故郷、柴又を後にする、寅さんの背中に、さくらさんが、行くとこ、ないんでしょう、と呼びかけるのだが、寅さんの時代なら、現在に、すなわち、映画の外へ、戻ってくれば、よかったわけだ。
寅さんの時代が終わった、今の時代、まさに、その通り、行くところは、ないのだ。
そういうわけで、寅さんも、いなくなってしまったのだな。
(2009年6月記)