有楽町線月島駅(佃住吉神社)

佃住吉神社

広場をさらに西に進むと、突き当たりは、隅田川
隅田川沿いに、少し、北へ。東側に、佃住吉神社がある。
佃の地の鎮守だ。
佃は、もともと、江戸時代の初め、大阪の佃からの、入植者によって拓かれたのだが、その、大阪佃の鎮守、田蓑神社も、その時、一緒に、付いてきたのである。
今は、田蓑神社という名前だが、当時は、住吉神社だった、ということだ。
田蓑、という名前については、大阪住吉大社を開いた、津守氏の当初の名前だったらしい。(田裳見宿禰、というのだが、田蓑宿禰、ともいうらしい。どうして、二つの名前があるのか、わからない)
津守氏、というと、名前のごとく、津(港)を守っていたのだろうか。
ところで、津守氏の、同族には、尾張の国を開いた、尾張氏、がいる。
尾張、今の名古屋だが、その尾張の西隣には、三河がある。三河、といえば、徳川氏。
こう見てくると、意外に深いところで、江戸と、佃は、関係があったりする。
もっとも、江戸時代の初めに、そういった、組織的な、繋がりがあったとは、思えないし、そのような、由緒が存在している程度のことだったと思うのだが。
ただ、言い伝えのように、徳川家康との個人的な縁だけで、田蓑の地(江戸時代前に、田蓑から佃に地名が変わっている)の住民が、この佃に、入植したとも、考えられない。
たぶん、江戸の街を開くにあたって、縁起が必要だったのかも。同時に、東京湾の、海産物資源の開発ができれば、というところか。
それにしても、江戸時代の初め、大阪から、はるばる、東京湾までやってきた、住民、何百年か経つと、佃の地が、こんなになっているなんて、想像もしていないだろうなあ。
ということは、今より、何百年か経つと、今からは、想像もできないような、変化を遂げていることになる。
だが、江戸時代の佃の漁師たちが、現代のこの地を見て、それが、望ましい未来の姿だと、思うだろうか。変化には、十分、驚くだろうけど。
そんな先のことではなく、一日先、一月先、一年先、そして、あと、何年か先。それだけ、安穏であれば、いいと思うのだろうなあ。
ずっと、そう望んでいたからこそ、こうして、今に到るまで、時代が流れてきたのだ。
そして、そう思うことによって、さらに、時代は、この先も、流れていくことだろう。
(2009年7月記)