東西線南砂町駅(南砂の富岡八幡宮)

南砂の富岡八幡宮

明治通りを、再び、北へと歩いていく。
すぐに、東西に伸びる清洲橋通りとの交差点。
清洲橋通りに入り、西へ。
越中島貨物線の下をくぐり、その西側に出て、清洲橋通りの南側の、住宅街の中。
かつて、訪れたことがあるのに、最初は、その場所が思い出せなくて、しばらくは、住宅街を右往左往してしまった。
やっと、富岡八幡宮を見つける。
門前仲町の壮大な富岡八幡宮ではなくて、こちらは、いたって、小規模な神社だが。
なんで、この、ささやかな神社が、富岡八幡宮と同じ名前なのか、よくわからない。
旧地、というわけでもないらしい。
旧地、としては、もっと、南側に、富賀岡八幡宮、という神社があり、別名、富岡八幡宮の元、元八幡、と呼ばれている。
なるほど、と、ここで、話が、終われば、いいのだが、終わらない。
富岡八幡宮の富岡、というのは、実は、横浜市金沢区に地名として存在しているのだ。
そして、こちらにも、富岡八幡宮があり、しかも、本家、ということになっている。
ということは、門前仲町富岡八幡宮は、横浜市富岡の富岡八幡宮、に対して分家、なわけで、実際、そういうことらしい。
ちょっと、複雑だが、まとめると、まず、横浜市富岡の富岡八幡宮があり、次に、南砂の富賀岡八幡宮があり、最後に、門前仲町富岡八幡宮、となったのかな。
けれど、こういう、伝承が、たしかに、残っていれば、目出度く、話は、まとまるけど、残念ながら、そんな話、まったく、残っていないのだ。
しかも、元八幡、と呼ばれている、南砂の富賀岡八幡宮の方が、門前仲町富岡八幡宮よりも、新しい可能性が高い。
富賀岡八幡宮は、おそらく、あたりに、砂村新田が拓かれたとき、その鎮守として、迎えられた、と思う。
なぜなら、新田計画の指揮を執ったのは、砂村新左衛門、という者なのだが、同時に、横浜や、横須賀でも、新田開発を行っており、横浜市富岡の富岡八幡宮についても、知っていたに違いないからだ。
さらに言えば、横浜市富岡の富岡八幡宮は、当時から、波除八幡、として、有名であり、海辺に近い、砂村新田の鎮守としては、ぴったりだ。
それでは、それ以前に、すでに、創建されていた、門前仲町富岡八幡宮には、どういう、所以があるのだろうか。
さっぱり、わからない。
(2009年7月記)