西武池袋線秋津駅(淵の森緑地)

淵の森緑地

秋津神社の北側に出て、北西方向に歩く。
すぐに、西武池袋線の高架脇。高架脇に沿って進んでいくと、柳瀬川があり、その対岸は、淵の森緑地となっている。
となりのトトロ」の監督、宮崎駿が、関わってきた、緑地らしい。
昔、ここから、東側の、空堀川、だと思うが、そちらの方には、行ったことがあるが。
そこも、緑が豊かで、環境のいい場所だったな。
ひょっとしたら、記憶違いで、淵の森緑地だったのかもしれないけど。
とにかく、埼玉県との境だからかもしれないが、一帯には、意外にも、自然環境が、残されているのだ。
昔は、そのような場所の方が、ごく普通の光景だったのだろう。
でも、それでは、普通の光景が、なぜ、これほどまでに美しく、描かれているのだろうか。
自然環境が失われた、今、振り返ってみるから、美しいのだろうか。
それも、あるだろうが、たぶん、追憶だからかもしれない。失われた過去の追憶は、どんなものでも、美しく、懐かしいものだ。
そうだとすると、いったい、「となりのトトロ」の世界は、誰の追憶なのだろう。
追憶するためには、「となりのトトロ」の世界を、すべて、把握している、必要がある。誰なのかな。
それが、可能なのは、唯一、サツキなのだ。
梅岩寺の六地蔵は、ちょっと、難しいかもしれないが、「となりのトトロ」における、松郷が、秋津駅の北西側だとすれば、当然、知りえたに違いない。
ばあちゃんの、七国山病院までの所要時間、3時間、という、妙な受け答えも、何度も、七国山病院を往復している、サツキが、作り上げたのだろう。本当の、所要時間を、熟知していたからこそ、曖昧で不思議な、時間にしてしまったのだ。
さらに言えば、この追憶、二段構造になっている。
最初の追憶は、当時の、サツキの、空想や、感じたままを、追憶しているのだ。
だから、その視点は、つねに、対象の、メイを、追い続けている。
その中で、サツキは、母親に、手紙を書いているが、その内容そのものが、追憶になっているわけだ。妙に、サツキが、子供っぽいのは、そのためかな。
二段目は、母親の退院が遅れる、という電報を受け取ったあたり。
ここからは、現在のサツキが、当時の自分を追憶している。だから、視点は、サツキを追っているし、年相応の振る舞いだ。メイは、むしろ、脇役になっている。
さらに、もう少し、考えてみる。では、なぜ、追憶が、二段構造なのだろう。その前に、ここまで来れば、察しは付くかもしれないが、サツキは、「となりのトトロ」の監督、宮崎駿、そのものだろうと思う。
最初の、一段目は、当時のサツキが、作り出した、空想で、手紙にも書いている。宮崎駿にとって、その手紙こそが、「未来少年コナン」や「ルパン三世カリオストロの城」、といった作品なのかもしれない。ある意味では、現実逃避的な、空想なのだ。
二段目は、空想するサツキ、そのものを、追憶している。ここで、一段目で、逃避しなければ、ならなかった、現実が、浮かび上がってくる。
そして、その、現実を描いた、二段目の中に、一段目の空想が、再び登場する。
さらには、二段目の現実の問題を、一段目の空想が、解決してしまうのだ。
空想は、現実逃避だけではなく、現実に立ち向かい、現実を変えていく原動力にもなる、というのが、「となりのトトロ」を通して、宮崎駿が、言いたかったことなんじゃないかな。
そんなことなど、考えながら、淵の森緑地を後にし、秋津駅に向かう。
(2009年8月記)