りんかい線東京テレポート駅(等身大ガンダム像)

等身大ガンダム像

見物客の中を、掻き分けながら、等身大ガンダムの正面近くへ。
このような、模造品は、近付けば、たいてい、馬脚を、現すものなのだが、等身大ガンダムは、違った。近付けば、近付くほど、その、迫力は、増すばかり。
模造品としては、よくできている、ということも、あるのだが、それだけではないような気もする。
実は、「等身大」、ということに、意味が、あるのかもしれない。
例えば、巨大な恐竜の化石が展示してあったとしよう。それを、「等身大」とは、言わないはずだ。
もともとの大きさなので、当然なのだけど。
だが、ガンダムは、恐竜の化石と違い、目の前の等身大ガンダムの大きさとして、世の中では、認識されていないのではないだろうか。自分も含めてだが。
おそらく、アムロや、その他、モビルスーツの搭乗者に、感情移入しているとすると、各々のモビルスーツは、見る者と、一体になるので、逆に、まわりが、小さく見えるはずだ。
アングル的にも、モビルスーツの全体像を、中心に、据えているので、周囲のものが、小さくなる。
さらに言えば、その、身軽な動きや、巧みな、身のこなしを見ると、ほとんど、搭乗者以上に、大きくはなっていないようにも、感じるのだ。
このように、大きさの感覚が、あまり変わらないので、ごく一般的な日常と、それを取り巻く、外部の戦場が、妙に連続しているのだろう。
作品のガンダムを見る者にとっても、その感じ方は、同じような気がする。
だが、こうして、「等身大」になったガンダムを、実際に、見ると、その意外な、巨大さに、ある種の、驚きと、さらには、崇高な気持ちすら、感じてしまうのだ。
ひょっとしたら、「等身大」になったのは、ガンダムだけではなく、見る者も、その場で、「等身大」になったのかもしれない。
(2009年8月記)