都営浅草線泉岳寺駅(高輪大木戸跡)

高輪大木戸跡

泉岳寺を出て、東へと歩く。
結局、門前の、渋すぎる、お土産屋さんを、冷やかしただけだったけど。
機会があれば、今度、もっと、ゆっくり、境内でも、見て回ろうかな。
ところで、赤穂浪士の討入り事件、なぜ、普遍的な人気のある物語になったのだろう。
むしろ、赤穂浪士の活動を見ていると、まるで、通常の業務を、たんたんと、こなしただけ、そんな風にも思える。
その、通常の業務、というのは、「敵討ち」のことだが。
もちろん、赤穂浪士の討入りは、正当な「敵討ち」とは、大きく、逸脱している。
でも、徒党を組んでの襲撃事件、として、体制側から、処理されたのだろうか。
どうも、そういうわけではないようだ。
とすると、やはり、変則的ではあるものの、「敵討ち」とみなされたに違いない。
ならば、目的は達成し、しかも、晴れて、「敵討ち」と認定されたわけで、話は、終わるはずなのだ。
だから、赤穂浪士の討入り事件には、ドラマチックな要素は、何もないのである。
でも、唯一、通常の業務とは、まったく、異なることがある。
それは、その結末が、ほぼ全員の切腹だった、という事実だ。
ぞもぞも、発端となった、刃傷沙汰だけで、切腹、という例もないし、「敵討ち」を達成して、切腹、というのは、それ以上に、まず、あり得ない。
むろん、武士なわけで、先例がないからといって、切腹のことは、考えていなかったとか、いざ、切腹の段になって、狼狽したり、うろたえたり、なんてことは、なかっただろうけど。
ただ、この討入りが、計画、遂行、そして、迅速な撤収、泉岳寺への移動、という風に、あまりにも完璧で、揺るぎがない。だからこそ、その結果が、切腹、というのは、どう考えても、腑に落ちないのだ。
ひょっとしたら、その、どうしようもなく、腑に落ちない史実こそが、物語を生んだのかもしれない。
そんなことを考えながら、歩いていくと、すぐに、南北に伸びる、大通り、第一京浜
第一京浜に入り、北へと進む。江戸時代は、東海道だった道だ。
しばらく進むと、高輪大木戸跡がある。
赤穂浪士たちは、泉岳寺に向かうとき、この大木戸を、通過したに違いない。
大木戸の門が、開くのは、早朝、6時。
泉岳寺に、赤穂浪士たちが到着したのが、朝、8時。
門を通過するのは、往来の激しくない、この、朝、8時前、という時間以外には、ないように思える。まさに、ぴたり、計算通りだ。
討入りを計画通り、成功させ、予定通り、門を通過して、目的地、泉岳寺まで、あと、少し、というところ。
赤穂浪士たちは、はたして、どんな、気持ちだったのだろうか。
(2009年9月記)