中央線三鷹駅(太宰治「斜陽」の文学碑)

太宰治「斜陽」の文学碑

そういえば、三鷹に来たこと、他にも、あったな。
学生のとき、映画を見に来たのだ。
3本立てだか、4本立てだか、無茶な、プログラム。
しかも、ずっと、立ち見で、さすがに、足が痛くなった。
もっとも、たまたま、三鷹で、映画、やってたから、来たまでのことだけど。
そんな、昔のことを、あれこれ、思い出しながら、駅を目指して、北へ、歩いていると、道路脇に、太宰治の文学碑。
「斜陽」の載っている書籍を象った、オブジェらしい。
さすがに、太宰治の街、三鷹だ。
もっとも、残念ながら、「斜陽」は、読んでいない。
それでも、学生の頃は、太宰治にかぶれたものだ。今でも、好きな小説家。
その割りに、ほとんど、読んだことないな。
太宰治の作品だけでなく、そもそも、小説を読む習慣がないのだが。
そういう、乏しい、読書体験の中で、今でも、覚えているのは、「薄明」、「たずねびと」、あたり。
戦争中、空襲に追われ、命からがら、逃げ回る家族の話なのだが、その中で、いつもは、頼りなげな、太宰治が、妙に、頼もしくて、張り切っていて、面白い。
これだけでは、ちょっと、太宰治の街、三鷹を訪れた、意義はないような気がする。
ということで、「ヴィヨンの妻」を読んでみる。「ヴィヨンの妻」は、映画でも、見たことだし。
配役は、酒浸り、女にだらしなく、生活も自堕落な、夫と、献身的な妻君。
だらしない、その夫が、泥棒を、しでかすところから、話は、始まる。
そして、この、どうしようもない、トホホな顛末を、妻君の視点から描いているのだ。(一部、泥棒の被害者であるのに、夫に振り回されながらも、受け入れてくれる、小料理屋の御亭主の視点もある)
映画では、妻君の視点、つまり、カメラ、ということにしてしまうと、妻君役の、松たかこ、が映らなくなってしまうので、ちょっと、俯瞰した、表現だが。
それで、結局、この作品、「ヴィヨンの妻」で、太宰治は、何が、言いたかったのだろう。
作品中、次のような、一節が、ある。
だらしない夫が、献身的な妻君へ言った言葉。「恐ろしいのはね、この世の中のどこかに神がいる、という事なんです」
そして、結局、小説の最後、夫が、「その、神に怯えたがために、家族の満足な正月に使う資金として、泥棒したのだ」、と、種明かしをしてみせる。
とすると、この「神」が、作品では、重要な、テーマ、ということになる。
では、「神」とは、いったい、何を、指しているのだろうか。
映画「ヴィヨンの妻」は、俯瞰した、表現のためか、この、「神」が、わかりやすい。二回、登場してくる。
すなわち、一回目は、夫が、森の中、他の女性(広末涼子)と、心中する場面。その間際に、天を、見上げると、木立の先に、光が見える。それに向かって、「グッド・バイ」、と、言っているのだ。「神」に対して。
二回目は、妻君が、心中現場に、残っていた、睡眠薬の瓶を見つけ、それを手にとり、この世から、いなくなるのは、どういうことか、と思いを巡らせていると、同じように、天上、木立の先に、光が見える。
だとすると、この世から、去るときに、現れる、木立の先の、光が、「神」、なのだろう。
つまり、「ヴィヨンの妻」の「神」とは、この世に、こうしてあることの、実感、もっと、言うと、それを、成立させている、何物か、のこと、に違いない。
その何物か、というのは、おそらく、誠実な妻君との、夫婦関係だったり、あるいは、市井の中での、社会的な関係性、だったり、そういうことなのだ。
それは、倫理的なことかもしれないし、世間体にすぎないのかもしれない。あるいは、ひょっとして、彼女自身の、夫に対する、意志、なのかもしれない。実際は、なんだか、わからない。
ただ、それは、夫には、ちょっと、わからないものだが、妻君には、直感的に、わかっているもの、なのかもしれないが。
こうして、考えてみると、太宰治の「ヴィヨンの妻」、何が、言いたいのか、はっきりしてくる。
すなわち、今、この世に、こうしてあることの、実感、それが、何にも変えがたい幸せ、ということなのだ。
太宰治のことが、これだけ、わかれば、三鷹に来た甲斐があったわけかな。
三鷹には、来ないんだが、もう、十分だろう。
(2010年1月記)