半蔵門線神保町駅(駿河台 太田姫神社)

駿河台 太田姫神社

東西に伸びる、靖国通りを、東へ。
すぐに、南北に伸びる、大通りとの、交差点。
北へ曲がり、そのまま、北へ、歩いていく。
駿河台の上り坂。まっすぐ、進めば、御茶ノ水駅だが、途中で、東へ。
街中、細い道を、進む。
すると、道路の北側、ビルの谷間に、太田姫神社。
今は、ひっそりと、佇んでいるが、いろいろと、変遷があった神社だ。
まず、室町時代太田道灌が、江戸城に、太田姫神社を連れてきている。
その後、今の、神田錦町一丁目あたりに、移り、さらに、江戸時代の初め、今度は、御茶ノ水駅近く、聖橋の袂、神田川の南岸に移動。
そして、昭和の初め、総武線開通のため、再び、移動、現在地に落着いたわけだ。
ところで、太田姫神社、というと、大きな、謎が、一つ、ある。
別名、一口稲荷、というのだが、読み方が、「いもあらい」。
なんで、こんな、読み方なのか、さっぱり、わからないらしいのだ。
そこで、自分なりに、ちょっと、考えてみる。
「いもあらい」は、そのまま、漢字にすると、「芋洗い」、あるいは、「えも(天然痘)洗い(祓い)」というのがある。
芋洗いは、川の水を引いた、芋洗い場、野菜洗い場から、きているのだろう。きれいな水、洗った後の汚れた水の、出入口は、あるが、芋や野菜は、通れないようになっているのだ。
一方、えも(天然痘)洗い(祓い)は、伝染病除け、ということ。こちらは、どこからか、防ぎきれない入口から、侵入してくる、伝染病に対して、なんとか、それを封じようとした、ということに違いない。
どちらにも、共通しているのは、流出入口が、ごく限られているにも関わらず、必ず存在し、しかも、決定的に、重要な意味を持つ、ということ。
だから、ただ、「一つの口」、すなわち、「一口」、という漢字なのだろう。
という風に考えると、なぜ、太田姫神社、別名、一口稲荷が、江戸時代の初め、神田川の畔、今の、御茶ノ水駅あたりに、移ってきたのかが、わかる。
例えば、以下のような、逸話。
徳川家康が、伊達政宗に、江戸城を、攻めるとすれば、どこから攻めるとよいか、訊ねたところ、すぐに、今の、駿河台から、攻める、と答えた。そこで、徳川家康は、伊達政宗自身に、駿河台を、開削して、神田川を通し、堀を設ける工事を、請け負わせる。
もちろん、この話は、たんなる、作り話だろうが、ただ、堅牢な江戸城にあって、唯一の、弱点、それは、北側にある、高台、すなわち、駿河台、ということは、事実だ。
つまり、四囲を固めた、江戸城に、「口」、があるとすれば、駿河台なのだ。
だから、その、駿河台に、一口稲荷、別名、太田姫神社を、移してきたのだろう。
もちろん、神社だけではなく、実際、高台を、無理やりに、深く穿ち、仙台堀、神田川を、設置している。
仙台堀の工事が、始まる、直前ぐらいに、太田姫神社が、移ってきているので、おそらく、仙台堀、神田川と、太田姫神社、別名、一口稲荷はセットだったに違いない。
この考え、本当かどうかは、わからないけど。
(2010年1月記)